才覚金

元治元年にも新発田藩は検断や庄屋を町会所へ呼び出し、郡奉行の七里敬吉郎から、町在への石がかり才覚金三万五〇〇〇両を命じた。ついで、慶応元年、町在石掛御用金を命じた。ここでは、藩財政ひっ迫の状況は、石がかり才覚金をもって、一度は融通してきたが、突然の急出府、常陸や上野へ浪従追討などを命ぜられ、膨大な入用のためにせっかくの石がかり金も使ってしまい、逆に三万両の不足となってしまった。くわえて当年春の護送御用、昨今うちつづく堤防決壊など、かれこれ膨大な入用がつづいた。さらにこのたび、京都表の容易ならざる形勢で、どのような異変が起るか計りがたく、急な上京を命ぜられるかもしれない。そうでなくとも来年は警衛の年番のところ、場合によっては春中に警衛にかかることになりそうな模様である。江戸、大坂、国元とも追々新借がかさみ、急な調達も無理な状況である。よって当年から慶応三年まで三年間の石がかり御用金を命ずるので、定納石一石につき銀一九匁を当年上納、同二七匁を来年末上納、同二七匁を再来年末上納、すること。と、達した。政情の緊迫化が、藩財政を圧迫し、ひいては村方に負担がかかっていることがよくわかる。

才覚金