村上藩の場合は、もともと窮迫していたところへ、藩主が老中に就任したことから、その窮迫度はいっそうはなはだしい物があった。嘉永五年、藩主の老中就任のために出費がかさむとして、三条陣屋つき五か組に御用金を命じている。江戸、大坂の両都での経費が膨大であるので、持高に応じてかかる高がかり金、百石につき二八両ずつ富裕者にかかる分限御用金、合計三万五九一五両である。同年九月新発田藩は、財政改革のための計画をたてた。その計画とは、この年と翌年の二年間にわたり、二万両ずつ計四万両の御用金をとりたてる。これに年貢として、以後毎年二万両をみこむ。そのうえで、初年度の年には、江戸へ三万三千両をのばせ、二万両の借金を返済する。尚、他に累積した借財高一一万両の利息を五五〇〇両返済する。これで一五〇〇両程度の余裕がでる。二年目は年貢二万両にこの余裕金の利息と残金などを合わせて、ここから江戸へ九〇〇〇両をのぼせ、江戸金主へ三〇〇〇両返済し、借財九万両の利息を返済する。以下、このようにして、年貢に余裕金の残金と、その利息をあわせたうちから、江戸のぼせ金、江戸金主返済金、九万両の利息を返済していって、一〇年目には、余裕金が一一万両をこえるので、借財九万両を全部返済できるという、計算であった。