会津領

文久元年、これまで存在しなかった、五万石という会津藩領が、突然越後に出現することになった。あたかも一つの藩が生まれたようなものである。このような広大な会津藩領が出現した理由は、同藩が安政六年、蝦夷地の一部を領地としてあたえられ、かつ一部の地の警衛をも命ぜられたことにはじまる。会津藩はその入用にあてるためと、会津からの輸送に便利となるために、万延元年、安房、陸奥の領地を、越後国内の地と交換することを、幕府に願い出た。これが認められ、岩船、蒲原、三島、魚沼の各郡で、五万石の領地を得ることになったのである。この新領地のうち、蒲原、三島郡で、出雲崎代官所から受け取った村々は、実はもともと村上藩領だつたところで、前年に領地変更があったばかりであった。そもそもこれらの地域が村上藩領から幕領に変更になったのは、村上藩主内藤信親の栄進がもとである。譜代藩であった村上藩主内藤氏は、幕末期になって、村上入封からかぞえて七代目内藤信親のとき、老中に就任し、墓政に参加することになった。

会津領