幕府倒壊

開港をきっかけとして、それまで無力だった天皇の政治的権威が復活し、尊王攘夷論が盛んとなった。それはやがて倒幕論へと進んでゆくようになった。文久三年三月、将軍家茂は京都に上った。これは尊王攘夷論の策謀で、幕府に攘夷を決行させようとする狙いがあった。八月に公武合体派の反撃が成功し、そのような動きは、けっきょくは失敗した。ここであらためて将軍家茂が京都に上ることになった。将軍の上洛にあたっては、文久三年一二月二〇日、小姓に任ぜられたばかりの、池之端領主の若殿溝口直壱も、将軍に追従して京に上った。文久四年一月一四日、直壱が文久三年一二月二〇日に御小姓に任ぜられたこと、一二月二七日機嫌よく御供奉したことが、領内に達せられている。直壱はこのあと、文久四年二月一九日に溝口直壱が出羽守と改名した。京都における前記のような形勢に対し、水戸藩内では、尊王攘夷論が天狗党と称して元治元年三月、挙兵した。また長州藩の尊王攘夷論派も七月、京へ攻め上った。

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