元治元年六月、池之端知行所の江戸屋敷から、国元へ前の当主溝口直清は奇合入となった。将軍は海路つつがなく帰還された。供をしていた若殿様も無事帰府された。と当時の形勢を報告している。元治元年九月、池之端知行所村々では、火急のさいの江戸へ上るべき人足を用意した。世上不穏につき、御上様が御立退などの義もあるから、火急に出府を命ぜられるであろうから、心得るようおおせつけられ承知した。そのために、人足めしつれ、御達しだい何時でも出発するという請書を出している。長州藩に対しても元治元年八月、征討令がだされ、全国の大名が動員された。いったんは、長州藩が謝罪して、幕府軍は撤退したが、同藩内で討幕派が勢力を盛りかえすに及び、慶応元年四月、幕府は再征にふみきった。慶応二年五月、村上藩主内藤信民は、将軍の上洛に追従することを命ぜられ、七月二〇日大坂に着いた。村上藩は長岡藩とともに、山陽道の芸州口応援のため、出兵することが命じられた。村上藩は芸州口出兵のため、領内に御用金を命じた。ただし八月、村上、長岡の両藩は大坂警衛に任務が変更された。九月、藩主内藤信民は、病を理由に大坂の警守を家臣にゆだねて帰藩した。幕府軍の長州征討は、けっきょく失敗し、将軍家茂の死を機に撤兵した。家茂の後は慶喜が将軍となり、幕府の権威回復に努めたが、薩摩、長州などの倒幕勢力の前に、ついに慶応三年一〇月一四日大政奉還をするに至った。