慶応三年一〇月一四日、十五代将軍徳川慶喜は政権を返還することを朝廷に上奏し、翌日勅許されて、二六〇年あまり続いた徳川幕府は倒壊した。成立した新政府は、政治の衆議をつくすため、一五日には一〇万石以上の大名に、二一日には一〇万石以下の大名に、それぞれ上京するよう命じた。しかし、各地の大名の多くは上京の延期を願い出たり、家臣を代理に上京させるなどして、これにただちに応じた藩は少なかった。外様藩の新発田藩主溝口直正は、この年八月に藩主を継いだばかりであり、一〇月二四日、家老の窪田平兵衛を藩主名代として上京させることを決定した。一方の村上藩内藤信民は、一一月一六日、徳川氏譜代の大名三八人の中にまじって、徳川家の累代の家臣であることを理由に、新政府からの上京の命令を辞退することを旧幕府に申し出た。新発田藩の場合、越後の諸藩の中では、遥かに勤王色が強く、会津藩に同情的な意見はあっても、徳川氏擁護論が藩の主要な路線となることがなかった。これに対し村上藩は譜代藩であったから、佐幕的な傾向が強く、このあとの戊辰戦争の過程で、明暗を分ける結果となった。