村々の自衛を命じていることは、藩領内において、このあとで、各地で庄屋、名主層の手で、農兵が組織され、ときには農兵組織となって活躍したことと関係があろう。村上藩も三条代官本間鋼兵衛が、領分中をまわり、非常のさい、藩に味方するよう説いてまわり、これに対し皆承知の旨を答えたと言う。また領内に趣意書をだした。それは倹約を命じた従来の内容にくわえて、帯刀御免の者は武芸をたしなむこと、時勢の風評や流唄をしないこと、村々の形勢を月々総代庄屋へ届ける事など、治安の維持に関した内容も含んでいた。軍用御備金を領内に課し、その額は村上藩用達だけで二万両にも及んだ。これに対して、三条町の御用達や地蔵堂、茨曽根、燕、地蔵堂の町年寄、郡中総代などが、三条役所に藩主父子の帰国を求める嘆願をした。それによれば藩主父子の江戸在住が長く、領内の緩急に対応できないこと、非常事変がおこっても適切な指揮ができないことを強調している。実際、北陸道鎮撫使に対する誓書も重臣が代わって提出したのであり、藩主父子の不在は、情勢の変化に対応できない恐れがあった。藩主信民は病中をおして帰国の途につき、村上に着いた。しかし村上をとりまく情勢は厳しいものがあり、総督府から命ぜられた重臣の上京延期を願った。