米沢藩の呼び掛けで、新発田、村上、黒川、三日市、村松の五藩が新発田で会合し、会津藩主松平容保の罪を許すよう、北陸道総督に嘆願書を提出することに決めた。事実上の奥羽列藩同盟への参加である。しかし、新政府軍の新出はきわめて急速であった。五月一五日には出雲崎が、一九日には長岡が、それぞれ攻略されている。同藩に参加した村上藩は三条陣屋警衛のためとして藩兵を派遣し、米沢、庄内両藩とともに、与板口で新政府軍と戦闘を交えた。新発田藩は当初から新政府軍よりの藩とみられていた。しかし、米沢、会津藩などの圧力によって、こうした路線をつらぬくことは、難しい情勢であった。仙台、米沢藩士が強硬に談判し、ついに藩内に同盟に参加することをふれだした。その後も、依然として、出兵することには消極的であったが、米沢藩が新発田城攻撃の態勢をとるにおよんで、ついに見附に藩兵を出兵させ、戦闘に参加した。米沢、庄内藩の越後出兵と、このような同盟側の戦力強化を前に、戦争は長期化し、一進一退を繰り返す事になった。六月二日には、同盟軍は今町の戦争に勝利したことによって、見附までもりかえし、長岡の奪還をうかがうほどであった。