攻防二

松山の庄屋の得た情報では、七月二八日ころの状況は、新政府軍が太夫浜へ上陸し、水原、新潟、上所島、網川原、山田島まで乱入した。平和村と大野町の両所は会津、米沢両藩がかためた、自分達の組へも、おいおい呼び出しがあるだろうということであった。また、亀田商人の得た情報では、酒屋の同盟軍は退却したが、大野では依然として、同盟軍の勢いが盛んで、三〇人ほどが進出したということであった。新政府軍は沼垂、上所島、出来島、などから対岸へわたり、守備する同盟軍と戦ってこれを敗北させ、新潟を制圧した。出来島から渡河した秋月藩兵が、平島に達したときには、守備兵は弥彦方面へ逃れた後であった。同藩兵が新潟へ戻る途中、新潟守備の責任者である米沢藩士色部久長等と遭遇し、久長はここで戦死した。平島村渡場から小新村土手にかけたところでも、米沢藩兵と政府軍が戦い、米沢勢六人戦死した。政府軍側も三人が戦死し、一人が負傷した。同盟軍側には関屋から平島に逃れた部隊と五十嵐方面に逃れた部隊があって、その敗兵をおってきた政府軍との間に、大仙坊ケ原でも戦闘があった。付近に隠れていた同盟軍兵士たちが、四方から駆け付け、新政府軍は苦戦を重ねたが、援軍が渡河してきたので同盟軍は敗走した。蒲原方面に逃れた同盟軍のほとんどは、加茂、三条方面に後退していった

攻防二