新発田藩は前記のとおり、いちはやく降伏して、新政府軍側に属したのであるが、村上藩はなお、同盟軍側で戦闘をつづけた。藩主信民が七月一六日病没し、前藩主信思も帰藩出来ないなかで藩論は分裂した。八月一一日帰順派は降伏し、あくまで抗戦を主張する家老鳥居三十郎ら二〇〇名余が、村上城をしりぞいて庄内に向かった。この知らせは八月一七日には陣屋のあった三条にも伝わった。九月一三日、帰順派の重臣たちが、北陸道先鋒総督に抗戦の罪を謝し、かつ前藩主内藤信思にふたたび家を継がせるよう嘆願した。これに対し総督府は一〇月二〇日、岩村田にとどまっていた信思に、東京に上って謹慎するよう命じている。九月中には、会津藩、庄内藩はじめ同盟諸藩はあいついで降伏した。庄内に逃れて、戦闘を続けていた村上藩士も降伏した。奥羽越を部隊にした戦争はここに終結した。